『若尾圭介inパリ』発売!
ワーナーミュージックより
昨年パリで録音した 最新盤『若尾圭介inパリ』 4月9日、発売 若尾圭介(Ob) 広瀬悦子(Pf) マルク・トゥルネル(Fg) パリの想い出満載、 ブックレットに至るまで 渾身の作品です。 是非聴いて下さい。 http://wmg.jp/artist/wakaokeisuke/WPCS000012677.html ------- 元ボストン・ポップス 音楽監督、作曲家 ジョン・ウィリアムズが 若尾圭介の為に 初のオーボエ協奏曲 を作曲しました。 2011年5月25日・26日 ボストン シンフォニーホールにて J.ウィリアムズ指揮 若尾圭介オーボエ ボストン・ポップス オーケストラ共演の 世界初演は盛況に 終了しました。 ------ メールを下さる方は wkboston@live.jp へ感想・質問・要望等 お送りください! 若尾圭介オフィシャルHP http://wakaokeisuke.com/ 外部リンク
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1 2009年 09月 29日
このごろ、昔の私を知る人に
「随分、まるくなりましたねぇ。」 と、言われる。 いや、体型のことだけではなく。苦笑) 若かりし頃は今よりもっとアクが強く、尖っていた。 こだわりも競争心も人一倍。目つきはギラギラ、戦々恐々としてて。 おまけに表面だけを取り繕ったり、その場だけの同調など無意味だと可愛げのない態度。 早くから日本特有の生き難さに気が付いていたし、思うままに行動するとたちまち目立ってしまう集団生活にも全く馴染めなかった。 そんな私を「トンでもない」と遠巻きに見ていた人たちも多い中、ほんの数人の真心ある友達、先生や周りの大人達の愛情に救われてきた。 小学校時代の担任だった馬場俊一先生、中学時代の岡島記江子先生、オーボエの恩師、新松敬久先生や佐藤順子先生、小島葉子先生。 生活の大半を占める学校の担任とオーボエの師に恵まれたのは幸運だった。 先生方とは現在に至るまで長い期間のおつき合いが続いている。 今でも優しさに溢れ、表面だけでなく本質を見るという共通点のある、特別に素敵な方々である。 9 月6日の日曜日、埼玉県障害者交流センターでコンサートがあった。 年に一度、今回で13回目。 ![]() 最初にここでのコンサートを企画してくださったのはオーボエの佐藤順子先生。考えてみると私が関わっているシリーズでは一番長く続いているのが、この埼玉県障害者交流センターでのコンサート。 温かく迎えてくれる職員の皆さん、様々な障害を抱えたお客様も聴きに来て下さる貴重な場であり、華やかなばかりのコンサート会場とは違う何かがあって毎年楽しみにしている。 ![]() ![]() そんな場を与えてくれた佐藤先生が体調を崩し入院中で、とても心配。今でも先生に会うと若かりし真直ぐな自分が微かに蘇る。それほど信頼し、ある意味甘える事の出来た優しい佐藤先生だった。 今回の日本滞在中にお見舞にいくつもりが行けずに、気になっている。 基本は変わらないとはいえ、理解ある人達に囲まれ長く生きるうち少しは角が取れてきたかなと思う。 とんがり続けるのもエネルギーのいることだから。 先生に限らず人生の要所要所で、今まさに会いたかったのだという人が絶妙のタイミングで現れる。 結局オーボエしか無い私の前に、誰かが去ってもまた必ず志を成就させる為に必要な力を持つ人が現れて手を差伸べてくれる。 人生は偶然ではない何かに取り巻かれて続いていく。そう思わずにいられない。 ![]() ■
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by wkboston
| 2009-09-29 23:19
| BSO入団までのこと
2007年 12月 11日
初めてオーボエを教えていただいたのは元日本フィル・ソロオーボエ奏者の新松敬久先生。
今から30数年前、中学1年生の時のこと。当時は熱血野球少年で、とあるグラウンドで連日ジョギングやトレーニングに励んでいた。そんなある日、偶然、近くにあった日フィルの練習場から聴こえてきたオーボエの音色にハッと惹きつけられた。 曲はドヴォルザークの8番だったかな。 そのオーボエを吹いていたのが当時現役バリバリに活躍しておられた新松先生。 これだ!とピンとくる動物的直感というか、感性というのか・・はその頃から優れていた、と自分でも思う。そして、ピン!ときたら即行動、というパターンも今も変わらない。 この時も、オーボエの不思議な魅力に導かれるように、日フィルの練習場を訪ねていき、新松先生と出会ったのだった。その場で 『おじさん、オーボエを教えてよ』と言ったのを覚えている。 それから先生との長〜いつきあいが始まったわけだが、今振り返ってみても、先生には本当にお世話になった。 初めてオーボエを買って欲しいと頼む時にも一緒に両親を説得してくれた。 レッスンは音作り、リード作り、そしていろんなおしゃべりでいつも3、4時間はあっという間だった。 何か疑問が湧いたら即、先生に電話していたことも懐かしく思い出す・・・。 オーボエとの本格的な出会いと同時に新松先生とも出会ったのだ。 当時の《上手くなりたい!克服したい!》という猛烈なる情熱に、徹底的につきあっていただき、オーボエと音楽の教えを受けたことは、その後のオーボエ人生に繋がっていく大きなことだった。新松先生の教えと愛情があったからこそ、何があっても揺るがない土台が出来上がった。 今でも先生のことは、大好き。尊敬している。 今日もランチをご一緒させていただきました。楽しかった! ![]() ■
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by wkboston
| 2007-12-11 22:40
| BSO入団までのこと
2007年 09月 25日
9月22日朝、小学校のオーケストラとのジョイントコンサートのため、台東区立蔵前小学校へ。
蔵前小オーケストラの皆さんの演奏を聴かせて頂いたり、こちらの演奏を聴いて頂いたり。 水谷上総さんにはファゴットを、水谷智恵さんにはバイオリン、小倉貴久子さんにはピアノとチェンバロをそれぞれ演奏して頂いて、小学校の体育館がさながら立派な音楽ホールの様な空間になった。 こういう場でも子供向けコメントを巧く言えるタイプじゃあないし、演奏も選曲もいつもの(大人向け)と同じもの。それでも、否だからこそ、子供たちも何かを感じてくれるのではなかろうか、というのが狙いであり、願いであったわけですが。 うまくいったかな? 写真下;オーケストラの皆さんと共に白鳥の湖を演奏しているところ。 ![]() ![]() 実を言うと、蔵前小校長の馬場俊一先生(写真右から2番目)は、かれこれ30数年前、小学校時代の担任の先生。その縁で今回のジョイントコンサート開催の運びとなったわけである。 自慢じゃないが、小学生のころは相当な暴れん坊。まあ、良く言えば人一倍の有り余るエネルギーをどこに発散すべきなのか、思案しあぐねていた時代というのか。 そんなころ、大学を卒業したばかりの馬場先生がクラスの担任教師として赴任してこられた。 教師としての志高く、やる気満々、おまけに体育専門で若かった馬場先生は、暴れん坊主に体当たりでぶつかってきた。幾度となく本気で叱られて、父親以外の大人をはじめて恐い!と思ったものだ。 でも、その、先生の本気に小学生ながら深い愛情を感じたんだろうな。卒業してからもずーっと馬場先生のことが心に残っていて、アメリカ留学後、小学校卒業からは随分年月が経っていたが、日本でのデビューコンサートに先生ご夫妻をお誘いしたのだった。 それ以来、ご自宅に招いて下さったり、電話で様々な相談にのってもらったり、コンサートにも来て下さったり・・という交流が続いている。 真の意味で恩師と呼べる人は限られるものだが、我が人生における最初の恩師は、馬場俊一先生である。馬場先生と会う度、こんな先生がたくさんいたら、日本も随分変わるのではないかと心から思う。 ■
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by wkboston
| 2007-09-25 01:24
| BSO入団までのこと
2007年 07月 05日
今日は一日中、雨のタングルウッド。肌寒いくらいであった。
以前にも少し書いたが、1979年、17歳の時に初めて海外に来て、過ごした場所がここ、タングルウッドである。 アメリカ五大オーケストラのオーボエ奏者になりたい、という夢を持ってタングルウッド・ヤングアーティスト・インステテュートに勉強に来たのだった。 今年の夏も、BSOのタングルウッド音楽祭が開催される夏の2ヶ月間に合わせて、同じ敷地内で、方々から集まってきた若い音楽家の卵たちが学んでいる姿を見かける。 かれこれ28年前か・・・。タングルウッドシーズンの初めにはいつも、昔をふと思い出す。 血気盛んな17歳、期待に胸をいっぱいにして降り立ったアメリカだったが―― 現実は厳しかった。 オーボエはそこそこ上手く吹けていたような気がするが、そんなことより、英語が聞きとれなくて、先生やオーケストラの指揮者の言っている意味がわからない、次の授業はどの教室に、何を持って行くべきなのかさえ曖昧・・・ まわりの先生やクラスメイト達は親身に助けてくれるような雰囲気はなく・・・ いつも一人ぼっちで、でもこの状況をどう切り抜けたら良いのか・・・と焦りばかりが募り、強烈な孤独感を初めて味わった。極度のホームシックである。 それまで腕白で通してきた自分がホームシックになったという事実もまた、非常に気分を落ち込ませた。 食事も喉を通らなくなり、ガリガリに痩せて、2ヶ月間の滞在期間を終え、日本へ帰国するためにタングルウッドのバス停でバスを待っているときには、 『もう2度とアメリカには来るまい。こりごり』と強く思っていた。 それが、今ではすっかりアメリカに居ついて、20数年。人生、わからないものである。 あの時は心底辛かった。ーーが、それまで両親の元で守られ、細々と世話を焼いてもらっていたところから、自分の意志とはいえいきなり言葉も文化も異なる誰も知らないところへ飛び込んでいったのだから、なんらかの摩擦がおきて当然だったのである。 一人前の、真の音楽家になる為に、孤独に耐える力を養うことがとても大切なことだということも、今ならよくわかる。 今の寂しさ、孤独が一生続くわけではない。目指す音楽の為に、頑張っていこう。 ■
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by wkboston
| 2007-07-05 11:21
| BSO入団までのこと
2007年 02月 06日
一昨日、昨年12月に亡くなった元ボストン交響楽団首席オーボエ奏者ラルフ・ゴンバーグ氏の追悼コンサートがあった。
ゴンバーグ氏を偲んで、氏と所縁ある著名人が全米から集まり、前BSO音楽監督、小澤征爾氏からの見事なフラワーアレンジメントがステージ前に飾られて、会場は静かな華やかさをも漂わせていた。 長年の感謝の気持ちを込めて、シューマンのアダージョとアレグロを演奏しながら頭をよぎった、氏との思い出を書いてみようと思う。(下の写真はコンサート終演後、ゴンバーグ未亡人と) ![]() ラルフ・ゴンバーグ氏と初めて会ったのは、中学3年生のときだった。 中学1年でオーボエを始めて1年ほどで既に 『アメリカ五大オーケストラのオーボエ奏者になりたい』ということを、はっきり意識していた。 当然はるか彼方に瞬く星のような、遠い遠い目標だったのだが。 でも思うことは自由だから、心の中で五大オケのオーボエ奏者を勝手に並べ立て、 シカゴ交響楽団の、レイ・スティル ボストン響のアルフレッド・ジョナベース フィラデルフィア管なら、リチャード・ウダムス ニューヨーク・フィルならハロルド・ゴンバーグ クリーヴランド管なら、マーク・リフシー、ジョン・マック (全て当時の所属・全員、『伝説の』と形容詞のつく大オーボイストである) ヨーロッパなら、断然、パリ管、パリ音楽院のモーリス・ブールグ。 ・・・に、もしもチャンスがあれば、オーボエを聴いてもらいたい!と無謀にも、しかし真剣に、考えていた。 五大オケを初めて聴いたのは、確か中学2年生、シカゴ響の来日公演だった。 オーボエの恩師、新松敬久先生と小島葉子先生の師でもあった当時の首席オーボエ奏者、レイ・スティルが公演の合間にマスタークラスを開くというので、この時は、聴講生として聴きに行った。 それまで機会ある毎に、新松先生や小島先生からスティル氏のオーボエの素晴らしさについて、聞かされてはいたが、実際に目の前で聞く、スティル氏の音楽に そうか、こんな世界が待っているのか! と目から鱗がボロボロ落ち、椅子から立ち上がれなくなるほど衝撃を受けた。 家に帰って、この日から、 『すぐにでも、アメリカに行きたい!中学校はやめてもいい!』と言い出し、両親を困らせた。 待ちに待った次のチャンスは当時の音楽監督小澤征爾率いる、ボストン響の来日公演だった。中学3年生になっていた。 いよいよだ、と今度は楽器を携えて、一人でコンサートを聴きに行った。 お目当ては先にも書いたが、当時のボストン交響楽団の副首席オーボエ奏者アルフレッド・ジョナベースである。 何故、当時のボストン響首席オーボエ奏者だったゴンバーグ氏より、副首席のジョナベース氏だったのかというと、持っていたマルボロ音楽祭のレコードのジョナベースのオーボエがあまりに美しく、宝物のように大切に聴いていたレコードだったからとしか言いようがないのだが。 さて、その日のプログラムは、小澤征爾指揮、ベルリオーズの『幻想交響曲』だった。 ジョナベースの有名なオフステージのオーボエソロは、ホールの天井を突き抜けていくかのように、伸びやかに響き、感動的だった。 終演と同時に脱兎の如く走って、ステージドアまで行き、公演を終えた楽団員たちが出てくるのを待った。ジョナベースが出てくるところを捕まえて、何度も練習した英語のフレーズで 『素晴らしい演奏でした。ボクはオーボエをやっています。すこしでいいですから、聴いてもらえないでしょうか』 と、歩み寄った。 どっしり太ったジョナベース氏は、とっても気さくに 『いいよー。じゃ、一緒にバスに乗って、ホテルまでおいで』といってくれた。 さすがに、それでは所在無いと思い、タクシーを拾い運転手に楽団員たちを乗せたチャーターバスを追いかけてもらった。 ホテルに着き、駈足でエスカレータを上がった。 まだ数人の楽団員が楽器片手にロビーで談笑していて、そのうちの一人に『オーボエの人と会うことになっているのです』というと、部屋番号を教えてくれた。 教えてもらった部屋の前。ピンポーンとベルを鳴らす。 がちゃ、と扉が開いた。 ・・・『あれっ!』 そこに立っていたのは太っちょのジョナベースではなく、首席オーボエのラルフ・ゴンバーグだった。 名前を告げず『オーボエの人』と言ってしまったので、てっきり首席オーボエのゴンバーグ氏のことだと思って彼の部屋を教えてくれたのだろう。 ・・・無理もない。 ゴンバーグ氏も、楽器を抱えて突然訪ねてきた中学生を快く迎え入れてくれ、結局オーボエを聴いてもらうことになった。 不思議と緊張はしなかった。 自分はまだまだ未熟だけれど、夢中で未来を模索していてそこに辿り着く、手助けをしてくれそうな人の前で演奏できるなんて嬉しくて仕方が無かった。 曲の途中で遮られて、彼は言った。 『タングルウッド・ヤングアーティスト・インスティテュートというのがあって君のような若い生徒が世界中から集まってくるよ。すぐにテープを作って、オーディションを受けなさい。タングルウッドでレッスンをしよう。待ってるよ』 その具体的なアメリカへの、未来への案内に、興奮し心躍ったことを今でも良く覚えている。 それから1年余り、高校2年の夏、晴れて、特待生というオマケ付きで単身タングルウッドへ留学できることとなった。 そして、ここがスタートとなって、まあ、それからいろんな事があったが今に繋がっていると言っても過言ではない。 ちなみに中学3年生のあの日、手違いでゴンバーグ氏の部屋に行ってしまったのだったが、彼の部屋を出た後、ダッシュでフロントへ行きどうしても会いたかったジョナベース氏の部屋を教えてもらい彼にもオーボエを聴いてもらったのだった。 ・・・初志貫徹。生まれつきの、モットーである。 タングルウッドでは、ゴンバーグ、ジョナベース両氏に師事し、大変お世話になった。 ゴンバーグ氏のあの『タングルウッドにおいで』という言葉は、まさにアメリカへの、未知の世界への扉だった。 氏のタングルウッドでのレッスンは、初めてアメリカに来た英語の全く出来ない日本人の高校生、を相手にした生半可なものではなく、それはそれは厳しいもので、プロへの道は遠く甘いものでは無いという事を一から叩き込まれた。 ミスター・ゴンバーグ。本当にありがとうございました。 心からご冥福をお祈りします。 ■
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by wkboston
| 2007-02-06 16:13
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